日本の繁栄と滅亡をかけた祭りごと作戦ニーマルニーマル2020

 

 

「裸祭り」って、ご存知ですか?

 

私は岡山に住んでいるのですが、岡山の西大寺という地区には、2月の真冬に行われる「裸祭り」という、男たちの祭りがあります。

 

めっちゃ寒い中、夜の22時っすよ、ふんどし1枚になった男たちが、わんさか神社の境内に集まります。

 

その数、約1万人!

 

どっから湧いてくんの!? っていうくらいのふんどし男たちが、熱気ムンムンで集まるんだから、そりゃケンカも始まりますって!

 

本堂から投げられる2本の宝木(しんぎ)をめぐっての争奪戦に参加することもなく、ヤンキーたちが警察に捕えられていくのが、まず最初の見どころかもしれません。

 

どうやって登ったんだか、境内の屋根の上や、松の木の上にいるヤンキーたちが引きずりおろされていく姿は悲しくもあり、「今日くらいハメ外させてやれよ!」という声をかけたくなるほどです。

 

本番の宝木取りは、残った「真剣勝負」のみの、ふんどし男たちで臨みます。

 

運良くその宝木を手に取った男が、猛ダッシュで指定されたコースを走り抜けるのですが、「そうはさせぬ!」と、その男から宝木を奪い取ろうと、残りの男たちが追いかけます!

 

すごい数のふんどし男たちが、ひたすら同じ方向に走る姿……。

 

それは、まさに、卵子をめがけて突進する精子の姿そのもの……。

 

命のものがたり……。

 

勇敢かつ若干引く姿に、女子たちはその命がけの勝負を見守るしかありません。

 

ゴールした2匹の精子は、その年の「福男」として地元のニュースになります。

(宝木が2本あるのは、陰と陽を表しているので、2本で1つの意味がある)

 

そんな熱い精子たちの、いや、男たちの決戦が楽しみな「裸祭り」は、この冬どうなるのでしょうか。

 

2020年、夏祭りは中止。

 

たぶん、このままいくと、秋祭りもなくなり、その流れで「裸祭り」も……。

 

コロナの影響で、全国のお祭りが続々と中止になっています。

 

 

もちろん、仕方ないことだとは思います。

 

ただ、この「祭り」が日本人にとって、どれほど重要で不可欠なものであるのかを、きちんと理解し、その対策まで意識できている人がどれくらいいるでしょうか。

 

それを考えずに、言われたとおりに「中止」を受け入れて今年をやり過ごすというのは、ハッキリ言って危険だと思います。

 

それだと、もう、ロボットと一緒です。

 

 

「祭りがない。それなら、どうする!?」

 

自然にそういう思考にならないとおかしいくらい、祭りは日本人にとって重要なものなんです。

 

 

その理由は、3つあります。

 

まず1つ目、祭りって、どういうことを指すのでしょうか。

 

細かいお祭りはたくさんありますが、大きなものでいうと、春はお花見、夏は夏祭り、秋はお神輿、冬はお正月をとおして、日本人は「祭り」を楽しんできました。

 

要するに、堂々とお酒を飲んで歌って騒いで、盛り上がれる場所、ということです。

それも、周りのみんな全員が同時に盛り上がる、というのが重要です。

 

というのも、日本人は「和」を大切にする性質があります。

 

その良くも悪くも、「周りの空気を読む」という性質があることで、自分一人が楽しむとか、周りの目を気にせず好きな時に良い気分でいる、というのを難しくさせるのです。

 

だから、誰の目も気にせず、堂々と「楽しくいる」ためには、自分を含めて周りのみんなが同じタイミングで「楽しい」「ゴキゲン」な状況であることが大切なんです。

 

それが、祭り、なんです。

 

その祭りをなくすと、どうなると思いますか?

 

うっぷんが溜まります。

ストレスが溜まります。

いつの時代も、ストレスはあるものですから。

 

その、モヤモヤしたうっぷんを晴らす祭りがなくなると、起こらなくてもいいことが起こったりします。

 

家庭では夫婦ゲンカ、親子ゲンカが起こり、会社では人間関係がギスギスするかもしれません。

 

本来ならどうでもいいニュースを批判したくなったり、さらに、人を批判するためにSNSを使ったりするかもしれません。

 

定期的に祭りを開き、そこで、お酒を飲んだり騒いだりして、普段のストレスをしっかりと吹っ飛ばし、それからまた日常に戻っていく。

 

日本人は、こうやって祭りをうまく利用してきたと思うんです。

 

それがこの数十年で、どんどん祭りが収縮され、簡素化されてきました。

 

これと、日本の離婚率がどんどん上がっていることや、批判家が増えていることは、関係なくもないように思います。

 

もちろん、祭りなどなくてもストレスを解消することはできる人はたくさんいるし、それこそが本来の健康的な生き方かもしれません。

 

ただ、どうしても、脈々と受け継がれてきた日本人のDNAには、自分が楽しい時にも、周りの空気を読んで楽しい気分を丸出しにしてはいけない、という暗黙のルールが存在するのは確かなんです。

 

気遣いという名の強制、が存在するわけです。

 

実際に、私の知り合いにこんな女性がいます。

 

高齢出産で、やっと妊娠できて幸せだったのに、会社には結婚したくてもできない女性、子供が欲しくてもできない女性がいたので、その喜びを公にできずヒッソリとむっつりと妊娠期を過ごすことしかできなかったそうです。

 

その女性は、あの時もっと心の底から喜びを出して生活したかったと、二人目の妊娠が叶わなかった今、猛烈にそれを後悔しているそうです。

 

この本質は、「周りの空気を読んでしまい、ありのままの自分の気持ちを表現できない」という日本人特有のモヤモヤした苦しみではないでしょうか?

 

そして、これは、誰にとっても、かなり思い当たる節があることなのではないでしょうか?

 

こういう日本人特有の性質があるからこそ、「祭り」は、全員が堂々と楽しい気持ちを表現できる場として、ずっとあり続けたんじゃないかと思うんです。

 

ただ、楽しい。

ただ、喜ぶ。

堂々と、気分上々になれる。

 

そう、祭りは世界中にありますが、日本人にとっては本当に必要不可欠なんです。

日本人の気質をうまく生かすために存在しているということなんです。

 

元々、陽気な欧米人とは気質がまったく違う日本人から祭りを取り上げられたらどうなるのか、今、私は、ちょっとだけ心配です。

 

そして、2つ目の理由としては、祭りには、上記の「ストレスを発散する」と同時に「今を生きる」ことを味わい、本来の自分に戻る役割があることです。

 

春は、寒い冬が終わって心がゆるんだところで咲く桜を見ながら。

 

夏は、暑い夜を花火や夜風にあたりながら。

 

秋は、私たちの主食のお米が実った感謝を感じながら。

 

冬は、1年を振り返り、新たな1年の始まりを感じながら。

 

どの祭りでも、その季節ごとに摂れるものをいただきながら、空気を感じながら、五感でしっかりと「今を生きる」ことを味わう。

 

こうやって、心を癒して精神を落ち着かせながら、また粛々とした日常、本来の自分に戻っていく、そんな大切な節目になるのが、祭りだと思うんです。

 

祭りの後の静けさ、という言葉もあるくらい、その「静時間」をあえて作り出しているとも考えられるのです。

 

ちなみに、思春期になると、夏祭りが途端に色濃くなるんじゃないでしょうか。

 

私の祭りの思い出といえば、中3の時の夏祭りです。

 

大好きな男の子に告白し、振られた苦い思い出があります。

 

ずっと泣いている私を無視して、大きな花火と歓声が上がり続けていたあの瞬間は、まさに「今を生きる」ことを味わった体験です。

 

一人歩いて帰った道のりは、告白する前よりも、もっと好きになっている自分の気持ちを嫌というほど感じずにはいられない、そんな静かな夜でした。

 

のち、1年、振られてもなお、好きな気持ちは消えませんでした。

 

きっと、誰もが祭りをとおして、「今を生きる」実感を味わったことがあるんじゃないかと思います。

 

 

3つ目の理由は、神とつながる時、だということです。

 

「祭」という漢字の「示」は、「神」や「社」の左半分にある「しめすへん」と同じものなので、宗教儀礼に関係することを意味します。

 

また、「示」の左上は、「肉」を指し、右上は「右手」を意味します。

 

つまり、右手で肉を持って、神様にお供えをすることを表した漢字だとされています。

 

さらに、「まつる」とは、「祀る」とも書きますので、やはり神様やご先祖様など目に見えないものとのつながりを意味します。

 

実際に神様がいるかどうかや、宗教的な話などを置いておいたとしても、間違いなく、人間の力とは全く関係のないところの力によって、この世は動いています。

 

花が咲き、緑が茂り、実が結ばれ、また次の収穫のための休息が訪れることを止めることはできません。

 

本来、大昔は、神様というのは、目には見えないけれど「確かに在る」、そんなモノを指していたのではないかと思うんです。

 

それは、植物を育ててくれる太陽の光や、空気のことであり、種を蒔くとなぜか芽を出してくれる土に宿る力だったり。

 

普段は気にしなくていいし、元気に生きればいい。

 

でも、時折、その「確かに在る」その存在を感じる、というのが祭りの本質なのではないかと。

 

季節の祭りごとに、その「目に見えない力」を感じ、祈り、感謝するという、ごく当たり前の儀式として、祭りは存在し続けてきたんだと思います。

 

 

お神輿を担いで回る時には、田んぼの稲は黄金色に輝いているんですよね。

 

そのお米が、日本人の命そのものだと実感するお祭りが衰退していることと、田んぼが減って日本の農業が衰退していることは、やはりつながっていると思います。

 

 

まとめると、

 

1.和を重んじる日本特有の性質の発散

2.生きることを実感

3.大いなるものへの祈りと感謝

 

この3つの理由が本質にある日本の祭り。

 

間違いなく収縮の道を辿っているお祭りが、コロナでさらに追い打ちをかけられた今、じゃあどうすればいいの!? ということになります。

 

まず、一人一人が、祭りの必要性を知ることだと思います。

 

日本の今と未来を支えているんだということを、もっと拡散していくとだと思います。

 

花見をしている著名人を批判して自分たちはガマンする、この構図がもうすでにおかしいということをハッキリと自覚した方がいい、ということです。

 

国が民を支えているのではなく、民が国の中心にある、自分たち自身が国を作っているんだ、ということです。

 

ずっと昔から民が大切にしてきた「祭りごと」を「政」によって失う、というのはシャレにならないと思うんです。

 

この3つの理由が分かりやすく表れているのが、前述の「裸祭り」だと思ったので、最初に書いたのですが、ここで、ちょっと立ち止まって考えてみてもらいたいんです。

 

今、命がなくなることを恐れるあまりに、命を歓ぶことができなくなる方向に進んではいないでしょうか?

 

隣の人と触れ合わない、喋らない、空間をあける、集まらない。

 

誰もがいつ死ぬか、寿命が分からないのは同じなのに、ただただ生き残るためだけに、残された命の時間を使う……。

 

それって、「AIが仕事を奪っていく」と騒ぐ前に、自分がロボットになっていないかどうか、もっと考えないといけないんじゃないかと思うんです。

 

何も今すぐに、この「裸祭り」のように、密すぎる状況をオッケーにしようと言っているのではなくて、一人一人が、「命を歓ぶ生き方」を考え直すタイミングではないかと思うんです。

 

子供と大人が、わが家とよその家が、顔見知りの人と知らない人が、見えるものと見えないものが、触れ合い、入り混じり、1つになる祭り。

 

日本人の長所も短所もうまく1つにしてくれる祭り。

 

生きることと死ぬことは隣り合わせであると漢字自体に刻まれている祭り。

 

 

そんな祭りが消えていく今こそ、国民一人一人が、政に流されず、自分の意識を中心にした生き方を問われていると思います。

 

万が一、日本を滅ぼそうという「静かなる戦争」だったら、シャレになりませんからね!

 

え? ジョークですよ、ジョーク。

 

 

ただ……。

 

私は、祭りがない分、ちゃんと3つの理由を網羅できる何かを見つけて、自分の「心の平和」を大切にすることから始めたいと思っています。

 

それが、「祭り」に込められた、本当の願いだと思うからです。

 

 

 

最新情報をチェックしよう!
>「私なんかが母親で、ごめんね」って、もう思わなくていい。

「私なんかが母親で、ごめんね」って、もう思わなくていい。




すべての家族がしあわせになりますように
すべての女性の心が平和でありますように  
すべての子どもの未来が守られますように